ユダヤ巨頭の大統領に対する米露通商条約廃棄の強要

今後、話は大統領タフトに対し、ユダヤ人等が、米露通商条約廃棄を強要したことに移るのであるが、フォードの記述に依ると、タフト大統領の時代まで、ユダヤ人はその宣伝力をもって露国攻撃の棍棒に、常に米国を利用しつつあったと言っている。またユダヤ人はワシントンに院外団を有し、この院外団はあたかもユダヤ国民により、ワシントンに設けられた大使館のようなものである。しかしてこの院外団には、これを操縦する大使があって、タフト大統領をしっかり押さえることが、その主要任務であった。しかし当時のタフト大統領は硬骨漢であって、たやすくユダヤ人に左右せられるような軟弱者ではなかった。

1911年2月15日ヤコブ・シツフ、ヤコブ・ファース、ルイス・マーシャル、アトロフ・クラウス、ヘンリー・エム・ゴールドフォグル等が、タフト大統領を白亜館に訪問した。かねてより彼等の要求は次の如きものであった。

「アメリカ政府はロシアユダヤ人の要求を、完全に貫徹せしめる義務がある。その方法として、アメリカは、アメリカに国籍を有するユダヤ人の、ロシア入国と定住拒絶に対する抗議として、米露通商条約を即時廃棄すべし、そうすればロシア政府は、アメリカ政府の発行する旅券を軽侮することが、いかに重大な過失であるかを了解するであろう」

と、タフトは、彼等が卓を叩きほとんど脅迫的態度で、議論しようとする計画を察し、かつ彼等の要求を洞察しておったから、彼等の裏をかき、まず彼等を書斎に集め、米露通商条約を廃棄することは困難であり、かつアメリカに不利であるとの判決を堂々と述べ、これを拒絶した。

傲慢なるシツフがこの答解に対し、極度に憤慨したことは申すまでもなく、彼は憤然として席を蹴って立ち上がった。タフト大統領はこのユダヤ代表等に対し、慇懃に立って握手の手をさしのべたが、シツフはこの手をはねのけ、階段を下りながら「この上はいよいよ戦争だ」と叫び、帰宅するや、彼は直ちにこの目的に使用するため、莫大な金額を準備することを命じた。翌日アメリカにおける新聞は、

「タフト大統領は、一専制君主のために、アメリカ市民の自由が蹂躙されつつあるのを、不問に付している、自由を尊重するアメリカ人は奮起せよ」

と、一斉に大統領攻撃を始め、ユダヤの各団体相結束して立ち、アメリカ全土にわたって、大統領攻撃の演説会が開催され、アメリカ上院下院もまたこの渦中に投ぜられた。この一事をもって見るもアメリカ新聞の大部が、ユダヤの支配下にあるのを証することができる。

遂にその結果、1911年12月13日上下両院は、大統領に、米露両国内の通商条約は、既に終了せる旨を通告すべく命じた。これにおいてアメリカ政府は、ロシア政府がアメリカ政府発行の、旅券を否認したとの口実で、80年来継続せられた米露通商条約を廃棄するに至った。

すなわちタフト大統領はユダヤ人の前に降伏したのである。その結果両国間の莫大なる取引は、米国人の手からドイツユダヤ人の手に移り、かつ1914年勃発せる欧州大戦にあたって、ロシアがいかに重大なる影響を被ったかは、想像に難くないことである。このタフト大統領攻撃に、ヤコブ・シツフが支出した金額は300万ドルと評価されているが、その効果たるや実に甚大であった。

ちなみにユダヤ人に反対せるタフトは、大統領の任期わずかに一期限りに終わり、かつタフトと共に条約廃棄に反対せる人々は、皆同様のわざわいを蒙った。

1920年ヤコブ・シツフ没するや、パリのユダヤ新聞は、

「将来の歴史家は、米露通商条約廃棄が、ロシア及びその他の国々に及ぼした影響を記述するユダヤ民族史の頁に、特別なる注意と、深甚の敬意を払うであろう」

と、シツフの活動に対し、大いに賛辞を呈したのである。

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