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シオンの議定書(第十五議定書)

第十五議定書

各国同時に革命を勃発させ、現在の各国の政府が全て没落して(これはおそらく一世紀はかかる)我々が決定的に主人公になった暁には、いかなる陰謀も我々に対して企てられないように、眼を見張り、我々の征服に反対していやしくも武器を執るものは、何人といえども容赦なくこれを鏖殺してしまうであろう。新たに秘密結社を創立するものは死刑に処する。我々の認めている現存秘密結社は、我々のために働いたものも、我々に反対していたものも、全て一律に解散させ、その会員はヨーロッパから甚だ遠い大陸に追いやってしまう。余りよく知っているゴイムのフリーメーソンも同様に取り扱う。何らかの理由で許してやっておくフリーメーソン社員はいつでもこれを追い払うことにしてこれを絶えず脅迫して置く。我々は法律を出して秘密結社員全部をヨーロッパから叩き出して、ヨーロッパは我々の政治の中心地とする。我々の政府の決定したことは決定的でこれに対する控訴も嘆願も許さない。

我々がゴイムの社会に対立、騒擾の根を深く植えこんであったから、秩序を恢復するのには無慈悲の方法を用いて我々には到底反抗は出来ないことを見せなければならぬ。将来の幸福のためにはどれだけ多数の犠牲者を出そうともなんら考慮する必要はない。真に己の政府の存続を忠実に考え、特権の存続を願うのではなく、その職責を全うすることを顧念する政府はたとえ虐殺に訴えても善をなすことを努めなければならぬ。永続する政府を創設する最善の方法は官憲の権威を増強せなければならぬ。それは政府の権限をすこぶる大きなものとしかつこれを揺るぎなきものとしなければならぬが、その基づく所は神から選ばれたのだから神秘的であるとの感想を与えることにある。近年まで帝政露国がそれであったから、ローマ法王と共に我々の随一の敵であった。イタリアが血の海と化したことを思い起こされたい。しかしかくの如く血を流したのはシーラであったがイタリアは彼の髪の毛一本にも触れ得なかったのだ。シーラは国民を虐げたのであるが、国民には強者と見えたのである、彼は大胆にも再びイタリアの地を踏んだがなんら虐待を受けなかった、国民というものは勇敢と沈着とによって国民を魅了してしまうとこれに触れようとはしないのだ。

前述の如く秘密結社は将来潰すのであるが、我々が主人公となるまでは、却ってフリーメーソン組合を世界各国に増設して行くのである。しかして現に名士でありまたは名士になりそうな人々をそこへ引き入れるのである。それはフリーメーソン組合は我々の主要な情報収集機関であって、我々の勢力はそこから出るからである。これらの組合は全て我々だけが承知していて、外の者には誰も知られないただ一つの理事者の下に統一されなくてはならぬ。即ちフリーメーソン組合は全てユダヤ長老に支配されるのである。組合から一人ずつ代表者をその理事会議に出席させて、理事会と世に現れいる方のフリーメーソンとの連絡に任じさせるのである。理事会が標語を与え、事業計画の編制に参加する。この組合には全ての階級の代表者を集めている。極秘に属する政策は組合を設ける日から我々が承知していて、その指導に当たるのである。国家警察、国際警察のほとんど全ての手先はその組合に加盟させるが、それは警察として擾乱者に対して予防処置を講じてくれるばかりでなく、我々の行動を世間に向けて秘匿してくれ又不平を起こさせるためなどにも役立つから、是非必要なのである。

秘密結社に入る人の多くは、野心家や物好きなど一般に軽々しい人々で、我々の計画に対して難しきことなどは言わず、却ってこれが実行を助けてくれるのである。何が紛擾が起こったとすれば、それは彼らの結束が余り強固になるのでこれを撹乱する必要が起こったためである。何か陰謀が起こされたとすればその頭目には必ず最も我々に忠実な家来が一人立っているはずである。我々だけがフリーメーソンの事業を指導するのは極めて当然の事である。なぜなれば我々だけがどこへ行くべきか又各行動の目的は何であるかを心得ているからである。ゴイムに至っては何にも解らない、すぐ後でどういう結果が来るかすら判らない。彼らが計画する時には、彼らの野心の一時的満足のほか考えない。その計画は結局彼らのためでは無くて、我々が彼らに鼓吹したものであることも自分でやっていながら気が付かない。

ゴイムが組合に加入するのは単なる物好きか公共の金の分配に預かろうという希望からである。中には実現不可能な希望を実現する機会をつかもうとして入って来るのもある。彼らは演説会の盛況と嵐のような拍手喝采にすっかり感激したり気をよくしているが、その拍手や成功は我々が大金を使って彼らに贈ってやるのである。此く我々が成功さしてやるのは、遂には起こる不成功で意気消沈することを大きくしこれを利用するためである。人に鼓吹された考えをも、確かに自分が考え出したものだと信じ切っているような人には特にその士気阻喪が甚だしい訳である。ゴイムの最も賢いものでも、無邪気に我々を信頼させる様に指導することがどれほど容易なことであるかは諸君想像の外である。これとは逆に又彼らを落胆させることも極めて容易なことである、唯些細なしくじりや人が喝采をやめただけでも彼らは士気阻喪するのである。その場合次の成功を準備してやるといえば彼らは完全に我々に服従して来るのである。我々ユダヤ民族は、計画が実行できさえすれば成功などは意に介せないのであるが、ゴイムはこれと反対に成功さえすれば目的はどうなっても構わぬという行き方である。この心理状態が即ち彼らの指導を容易ならしめるのである。外見は虎のようなゴイムは精神は羊のようなもので、彼らの脳は様々な愚劣なことを苦もなく受け入れる。我々は彼らの頭の中に一つの妄想を入れた、それは人間の個人主義を単なる象徴的思想たる集産主義(訳注 共産主義と紙一枚の主義)に没入することを夢見る妄想である。彼らはこの妄想は主要な天然法則に正面衝突することが、今もって理解できず、今後もまた決して了解できまい、天地創造の始めから、自然は個々のものを造って、個性というものを確認させるためにその個々は他のものとは違わしてあるのである。

我々の古代の長老はいかに先見の明があったか、彼らは、重要な目的を達するためには手段にこだわったり、その目的達成のために供する犠牲などを勘定してはならぬ、と言うたのである。我々は小粒の家畜たるゴイムの犠牲は勘定しなかった。我々自身多くの犠牲を出したが、その代わり我々の民族が夢にも思わなかった地位を獲得できた。我々の犠牲の数は比較的には余り多くないがこれによって民族の破滅を免れ得たのである。

何人も避け得られない終局は死である。であるから、新秩序の建設者たる我々自身が死ぬよりも先ず、我々の仕事をごたつかせる人々の死を早めてやったほうがよろしい。我々はフリーメーソン結社員を誰も気が付かないように殺そう、本人自身もそれは判らない、必要になれば彼ら全部も自然の死のような姿で息を引き取るであろう。我々の同胞はこれを知っても抗議などは敢えてしない、我々がフリーメーソンの中でいささかでも我々の言う事を聴くまいとするものを根こそぎにしたのは、左様な方法をもってしたのである。なぜなれば我々はゴイムに自由主義を説くけれども、我々ユダヤ民族と我々の手先は鉄の思想をもって押さえているのである。

我々の勢力によってゴイの法律を適用することは最小限に止めたのである。法の権威というものは我々が持ち込んだ自由主義解釈で失墜せしめた。最も重要なる政綱や道徳の根本は我々の思うようにかつゴイムの為政者に我々が示した方向に向けて法廷で定めてしまった。この目的はしごく簡単に達せられた、それは表面我々と何らの関係の無い手先の仲介により、あるいは新聞などを利用したのである。貴族院議員や大官連に一も二も無く我々の忠言を聴くものすらある。ゴイムの純動物頭脳には物を解剖したり、観察したりする能力は無い。いわんや決定した事項がいかなる結果に導くかという先の事などは尚判りはしない。

我々とゴイムの間には理屈の考え方にこんな相違があるお蔭で、ゴイムの本能的、動物的心理と較べて、我々民族が神の選民であることが判然するのである。ゴイムは物を見るけれども、予見をすることは出来ない、そして物質上のこと以外には発明する能力はない。これによってこれを見れば天然が我々ユダヤ人を王として世界を導くように造ってくれたことがいかにも明白である。

我々が天下を掌握するの日には、征服の成果を収め全ての法律を変革するであろう。我々の法律は簡潔で、明晰で、確定的であって解釈の必要は無い。それであるから誰でもそれを根本的に学び得る。その中にハッキリ入れて置くべき要点は官憲に対する完全な服従である。この服従によって全ての権力濫用を無くすことができる。それは何人も例外なく、我々の最高権威者に属する絶対権の前に責任を負うべきものであるからである。

次級官吏の権力濫用もまた無くなる。もし犯した場合には、もう再犯の到底出来ない程峻厳に処罰されるからである。我々は官憲のやる事を細かに監視する、これで物事がよく運ぶのである、もし一部に腐敗があると必ず他所にもこれを惹起することになる。いかなる法律の違反も、腐敗行為も処罰を免れることは無くする。役人の横領、怠慢も最初見せしめ的に厳罰すれば跡を絶つであろう。官の権威からすると、最上権の神聖を侵さんとするものは、軽微のことでも、適当なる罰則即ち厳罰を課せなければならぬ、犯罪が私利私欲を充たさんとする場合には特に然りである。厳罰を蒙る犯罪者は主権、政綱、及び法律擁護のために官界の戦場で斃れる兵士である。個人的理由や支配者側であるからと言うて公職を欠くことを免じ得ない。

裁判官が馬鹿げた慈悲を見せようとすると、それは刑法に違反することを知らなければならぬ、元々刑法と言うのは犯罪を無くする為懲戒的見せしめの為に作られたのであって、司法官の徳性を誇示するために出来たのでは無い。これらの徳性は私的生活には尊重すべきものであろうが、公的生活は人間生活の教養をなす基地であるから、ここではその徳性は尊重されない。

我々の裁判官は五十五歳に達すれば現職を退くのである。その理由は、第一に老人は兎角先入観にとらわれやすいのと、新秩序に容易に従いたがらない、第二には我々の言うことを聴く人々の人事を刷新するに役立つからである。現位置にとどまりたいものは何でも服従しなければならぬ。

概して言えば我々の裁判官は人を処罰し、法律を強制しなければならぬことを理解している人々の中から選ぶのであって、ゴイムが現在考えている様に政治の意義を無視して、自由主義の夢に任せて歩くようなことはしない人でなければならぬ。しばしば人事の異動を行う方式は役人の間に堅い結束の起こるのを予防し、彼らの運命の懸かる政府の利益に彼らを結びつける。最も若い裁判官には我々の人民相互の間に設ける秩序を害するおそれのある弊害を看過しない様に教育する必要がある。

現今ゴイムの裁判官は彼らの職責に対する明瞭な認識が欠けているので、いかなる種類の犯罪も情状酌量を加える。これは今日の政府が司法官を任命した時に、義務の観念と職責に対する信念とを吹き込まないから起こるのである。動物が餌を捜すために子供を出してやる時と同様に、ゴイムは職務の性質をも説明せずに高い位置を与えるのである。そこで彼らの権威は彼ら自身の努力と自身の執務とで地に塗れる結果になる。所でこの結果が我々の方式の利益となる更に一つの事例である。

我々の社会体制の見地から部下に与える教育をつかさどる官庁の全ての重要位置から自由主義を駆逐する。これらの椅子は行政事業のため我々が仕込んだ人々だけに与える。

人は恐らく老朽官吏の淘汰は国費の負担増加になると論ずるであろう。これに対しては次のように答える、それらの人々をやめさせる前、予め民間事業に位置を探してやって、彼らが失った所得はそちらで取り得られるようにする。世界の金は我々の手に集中されたのであるから経費のかさむのを恐れる必要はない。

我々の専制は全ての点から見て一途に出ているから、我々の大権の働きは全て尊重され、文句なしに服従される。我々は苦情にも不平にも考慮を払わない、もし不平屋が実行運動を起こしたならば、制裁を加えて他のものの見せしめにする。司法上の判決を覆さんとする控訴権は撤廃する、司法部は主権者の絶対的特権であるから、我々が任命した裁判官が誤った判決を下すことがあるという様に人民に考えさせることは許せない。しかし万一裁判に過誤があった場合には我々自身でこれを取り消す、その時には職務をわきまえない廉でその裁判官を処罰する、そして再び過失が犯せない程重く責任を問うのである。繰り返し述べるが我々の官憲が行う全ての仕事を厳密に監督して善良なる官吏による善良なる政治を要求する権利のある人民を満足させる。

我々の主権者の人物からして、我々の政府は族長であって父の如き保護者とみられるであろう。我々の人民はそれを父と見なし、その役目は全ての要望、全ての為さんとする所を見てくれ、人民間のことやら、人民と主権者の関係やら全てに渡って心配してくれるのである。かくして人民はこの保護者この指導者が居なくては安寧な生活はどうしても出来ないと思い込む様になり、我々の主権者の専制に服従しこれを尊敬し遂にこれを神化する様になる、人民が我々の役人は君主の言いつけを一生懸命に実行するに甘んじて、彼らの職域の最小範囲にとどまることを知った場合には尚更そうなる。故に我々の人民は、幸福に思う、それは万事は彼らの生活問題の内に律せられ、丁度賢明な両親が義務と服従との法によって彼らの子供らを教育しようとする様なものであることを認めるからである。

我々の政策の秘密から眺めると、人民とその官庁とは小さい子どもの類である。

諸君の知られる如く我々の専制は権利と義務とに立脚する、義務の実行を要求する権利は人民のための父親たる政府の第一の義務である。強者は人類を、天然法則即ち服従に立脚する社会秩序に向けて導くために、その威力を使う権利を持っている。この世界において全ては他人の力か環境か又は自らの本性か、要するに自己の力以上の力に従えられる。故に人類の幸福を実現するためには最も強いものになろうではないか。

我々は現存秩序を侵犯するものは何人でも躊躇なく犠牲にしなければならぬ、それはこの国民教育的大問題は、害悪を見せしめ的に懲罰することにあるからである。

イスラエル王がヨーロッパの捧げた冠を神聖な頭にいただくときには世界の族長となる。そこへ行くまでに払わなければならない犠牲者は、ゴイムの政府共が幾世紀かの競争時代に愚にもつかない偉大さを争うために供物として斃した犠牲とは比較にならぬ程少ない。

我々の王は人民と絶えず接触してこれに演説をする、それが直に全世界に宣伝されるであろう。

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