第十七議定書

弁護士業というものは人間を冷酷、残酷、頑固、無主義にし、常に人間味のない純粋の法律観に立たせる。弁護士はいかなる弁護をも引受け、法理の小細工にこだわって極力無罪を主張する。これで法廷には道徳が無くなるのである。それであるから我々は将来少範囲を限って弁護士業は許可するが、これを役人とするのである。弁護士は裁判官同様に、弁護を受ける人と交渉は出来なくする。法廷から公訴書類を受け取り裁判所の記録を調査して、法廷における裁判官の取り調べが済んで事実が明らかになった後弁護をする。弁護士は一様の俸給を受けるので事件の結果には関係はない。弁護士の任務は官憲が有罪を主張するに対して単に防護の位置に立って事件を論ずるのである。それで裁判は短縮されて個人的利益のためではなく、真に被告の無罪を信じてやる正直な公平な弁護が行われるのである。この方式にすると弁護士界に行われる腐敗行為がなくなり、金を余計出す者でなければ勝てないという弊風が除かれる。

我々はゴイムの僧侶の信用を落とすことに尽力して今日までその方に大いなる成功を収めた。民衆の上に及ぼす僧侶の勢力は日に日に下がって行くのである。

現今では到るところに信教の自由が宣言されたからキリスト教の転落はここ数年間の問題に過ぎなくなった。他の宗教に至ってこれよりももっと容易である。しかしその問題を論ずるのはまだ過早である。我々は宗門や宗門人が昔持っていた勢力と較べにならない様な程度に彼らの勢力を小範囲に局限してしまう。

法王庁を決定的に破壊してしまう時が来たならば、隠れた手が民衆にこの法王庁を指してやる。しかし民衆が法王庁に躍りかかろうとすると、我々は法王庁の保護者のような姿で現れて、流血の惨を許さないことにする。この転換によって我々が法王庁の内部に入り込みこれをまったく没落させるまでは出てこない。

ユダ王が全世界の法王となり、国際寺院の族長となる。

しかし我々が青年層を過渡的の新しい信仰に、次いでこれをユダヤ教に育て上げるまでは、我々は表向きに現存寺院には触れないで、内部の軋轢を醸さしてこれを論難することで闘争する。

概して我々の近代新聞は国家問題、宗教、ゴイムの無能を摘発するが、それには最も不正直な用語を使って百方中傷する、これは天才的の我々ユダヤ民族だけに出来ることなのである。

我々の体制はインドのヴィシュター神の支配を勧奨するので、その象徴たる百本の手が一つ一つ社会機関の発條を握っているのである。表向きの警察は我々がゴイの為に造り上げ、現在の政権には物が見えないようにしてあるものだが、我々はその手を借らずに見えるのである。我々の計画では人民の三人について一人が自発的に国家にご奉公のつもりで、他のものを義務心に基づいて監視するのである。その時にスパイになったり密告者になることは恥ずべきことでは無い、これは褒められるべきことだ。しかし根拠の無いことを密告したものはこれを厳罰して、密告権の濫用を防ぐのである。

我々の手先は社会の下層からも、最上層からも採用する。それは遊び好きな連中の中の出版業、印刷業、書店、商人、労働者、馬車の御者、カフェのボーイなどから選び出す。

この警察には職権を持たせず、自ら行動することも許さないから、権能はないので、ただ証人となり、告発をするだけである。それらの人の供述を確かめたり、逮捕を実施することは、責任ある警察の監察官連のやることである。逮捕そのものは憲兵隊及び都市警察が実施するのである。警察事件について見聞したことを報告しないものは隠匿罪または共犯またはその二罪具発とみなされる。

今日において我々のユダヤ人兄弟は自己の責任をもって、背教者やユダヤ教会に反対せんとするものを教会に密告する義務を負わせてあると同様に、我々の世界王国においてもすべての人民は犯人を告発する義務を負わせる。

此かる組織にすると、権力の濫用や、腐敗を無くしゴイムの風習の中に我々の勧告や我々の非凡な権利観念が植えつけた全ての事柄を破壊する。我々がゴイムの風習に種々植えつけたと言うが、彼らの政治に混乱を増させるためには他の方法があったろうか、いかなる方法で出来るか、これらの方法の内最も大切なるは、秩序の維持に任ずる高級の手先を使用することであった。彼らには破壊的悪質を示すこと即ち偏狭性、権力の濫用特に賄賂を受けるのを許すことであったのである。

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