第十二議定書

自由という言葉は色々に解釈できるが、我々はこう定義する、自由とは法律で許された事を為し得る権利である。この定義は我々だけに役立つのである。それは自由というのは我々がいかようにでも決め得るからである。法律は我々の計画に応じてこれを作ったり廃棄したり出来る。

新聞についてはこうである、現今新聞の役割は何であるかと言えば、党派の激情や偏狭な軋轢を起こすことで、すべては我々に利益になるのである。新聞は空虚で、不正で、嘘つきであって読者の大部は何の役に立つのかと疑うこともある。我々が新聞を絞め上げ、これをしっかり綱に繋いでいるのである。ほかの印刷物についても同様である、なぜならば我々が定期刊行物の攻撃から免れても、パンフレットや書物で攻撃されていては何にもならぬからである。現在では公表には大変金がかかるが、我々は逆にこれを我々の政府の有用なる財源になるようにする、それには特別の印紙税を設け、出版業者と印刷所とに保証金を納めさせるのである、そうすると言論機関からのあらゆる攻撃に対して政府を保護することが出来る。もし攻撃を受けた場合には罰金をもって方々からこれに対応する。印紙、保証金、罰金という方法は政府への重要な収入になる。もちろん政党の機関紙などは多額の罰金を取られても平気であろうが、重ねて我々に対する重大な攻撃をした場合には全然発行禁止にしてしまう。我々の政治的確信の権威に触れたなら何物といえども免れない。発行を禁ずるには次の口実を用いる。発行禁止になった印刷物は何らの理由も根拠もなく、いたずらに世論を激発したからだと。我々を攻撃する刊行物の中にも特に我々の方で創刊するものがあることに注意せられたい。そういうのが我々の政策を攻撃するのは我々が改正したいと思っている点だけに向ってするのである。

いかなる報道も広告も我々が眼を通してからでなければ公にされない。世界各地のニュースが若干の通信社に集められ、その手を経て報道せられるようになってから、既にその通りになっている。これらの通信社は他日全部我々の権力下に入り、我々が公表を許すもの以外のニュースは出せなくするであろう。

今日既にゴイムのほとんど全部は我々が目の先へかけてやる色眼鏡を通して世界の出来事を見ている程に彼らの心を押さえているし、また今日においても愚かなゴイムが「国家の秘密」などと言っているものを我々に透視できない国は一つも無いくらいになっているのだが、世界王として我々を公然承認せしめた暁には我々の地位は一体どんなものであろうか?

ここで新聞の将来に立ち戻ろう、何人も出版社、書店、印刷業をやろうとすれば免許を得なければならぬことにし、その免許は我々の法律に違反をした場合には取り消し得ることにする。それで、思想を発表することは我々の政府の手による教育手段となり、人民は思い思いの道に迷いこんで人道的進歩など夢見る気遣いが無くなる。我々の仲間にはかかる空想的の親切は驀地に実行不可能なる希望に持って行き、人民と政府の間に無政府関係をこしらえるに至ることを知らないものは無いはずだ。進歩、否正確に言えば進歩思想は何らの制限なく解放運動の種々な体系を出現させた。いわゆる自由主義者は実行においてはそうでなくとも少なくとも精神においては全て根本的に無政府主義者である。彼ら特有の狂的強情から反対せんがための反対をしながら無政府主義に陥った。

しかし新聞の問題を忘れないようにしよう。全ての印刷物の毎頁に印紙税をかけ、これは保証金で間違いなく取れることにする。300頁以下の書物はその税を二倍にする。薄い刊行物は小冊子と名づける。かくて最も有毒な雑誌の数を減らすことにし、また一方には著作家が厚い本を書かざるを得なくする。そのかわりそういう本は退屈するのと高価なので人が余り読まなくなる。しかるに我々自身の出版物は我々の思う方に世論を導くのであるから廉価でたちまち売り切れる。税の関係で思想的作家は尻込みをしてしまうが処罰の脅威で全作者が我々に降伏する。しかしそれにもかかわらず我々を攻撃しようとするものがあっても出版を引受け手が無い、それは印刷に付する前に出版業、印刷業者は官憲の許可を受ける必要がある。これで我々は予め我々に対する攻撃が準備されていることが判るから、世に現れる前にこれを反駁することが出来るのである。

文学とジャーナリズムとは最も重要な二大教育機関である。それゆえに我々の政府は定期刊行物のほとんど全部の所有主となるであろう。そして個人的新聞の害毒を中和してしまって民衆の上に大きな勢力を有するに至るであろう。比較的独立の新聞と我々のとの比例は一と三にする。しかし民衆はそんな事情は考えても見ないから、我々の発行する新聞は巧妙な方法で民衆を我々に信頼させながら反対意見の方を支持する。こうして我々は敵を引き付けるのである、敵は警戒をしていないから我々の陥穽に落ち無害なものになる。

主なる新聞というのは機関紙的なものである、それらは絶えず我々の利益を擁護し、従って彼らの勢力は比較的弱い。次には半官的のもので、その役割は我々の方へ無関心の人々及び中立の人を引き入れるのである。第三には明白な反対新聞で、少なくとも紙面の一部において我々を攻撃する。そこで我々の本当の敵はこの反対論を真実と思って彼らの腹を見せてしまう。

我々の新聞は全て色々違った主張を持っている、あるものは貴族政治的であり、他のものは共和主義または革命的で無政府主義のもあるが、これは勿論今の憲法が存続する間の話である。インドのヴィシュヌー神の如くに、これらの諸新聞は百本の手を持っていて、その一つ一つが世論の各層に衝動を与える。煽動時代にはこれらの手は我々の意見に従って世論を導くことに役立つ、それは興奮した人々は理屈は考えないで容易に指導されてしまうからである。馬鹿者は自分の党派の新聞の主張を反映して演説をしているつもりであるが、何ぞ知らんそれは我々の意見かまたは少なくも我々が彼らに与えたい意見を宣伝しているのである。彼らの同志の新聞に付いて行くと信じつつ、我々が彼らの為に広げている旗について来ている。

我々の新聞陣営が我々の計画を敷衍し得るためには、我々は大なる注意をもって言論機関を組織せなければならぬ。中央新聞局という名目で我々は文筆者の会合を設け、そこに我々の覆面の手先がいて合言葉と符牒を与える。我々の新聞は我々の政策を批判したりこれに反対したりする、勿論根本には触れず表面的のことだけである。また機関紙に対しても空砲を放ち、起こった出来事について詳報しなければならんと思っているような点を、補足出来るようしてくれる。しかしこれらの方法は必要な場合以外には用いないのである。新聞が我々を攻撃することは、新聞がまだ全然自由を失っていないという感じを民衆に与えることに役立つのである。それはまた我々の手先が、反対党は意義のない反対説を立てている、それが証拠には政府の政策を反駁する本当の根拠がないではないかと説きまわる機会を与えるのである。かかるやり方は一般の注目を避けて民衆に政府信頼の念を増させるのに最良の方法である。この方法によって状況に応じ、政治に関する民衆の感情を激発したり、鎮静したり出来るのである。我々はある時は真実をある時は嘘を注ぎ込んで、人を説き伏せたり、逆用したりできる。ある時は事実を根拠として立論しある時はこれに反対したりするが、それは民衆にいかなる印象を与えるかによって違う、要は深い注意をもって足下の地面を探りそれから足を踏み入れるのである。我々は常に理屈では敵に勝つ、それは敵が根本的に証明することの出来る一つの新聞を持たないからである。のみならず我々が新聞界に押し付けた制度のおかげで、我々は真面目に反駁する必要もないくらいである。また我々は半官紙を用いて、反対新聞に我々が掲げさした世論の風見気球をも強く否定することが出来る。

フランスの新聞界にはフリーメーソンの相互連帯が成立しており合言葉もある。すべての言論機関は職業上の秘密で結ばれている。既に過ぎ去ったものでも、前兆だったものはいかなる新聞も命令でなければ秘密を暴くものは無い。誰もこれを敢えてしないのは、文学指導者の仲間に入るには、かねて何か恥ずべき事をしたことのあるもので、その後不謹慎なることがあれば、直にこれを暴露することになっているからである。この不行跡は極めて少数の人だけに知られているのであるから、新聞人としての権威は外国までも広がっている、そして民衆の間に名声を博しているのである。

我々の計画は特に地方を包含し、首都のものに対する野心と反対の希望とを激発せなければならぬ。我々は首府に向けてそれらの野望を地方の主張であり見解であるとして現さなければならぬ。これらの運動は我々自身が主となって鼓吹するのである。我々が公式に政権を執るまでは、首府は地方の世論の下に置かなければならぬ、言い換えれば我々の手先が組織した大多数で制圧して置くのである。大事件になった時には首府は既成事実に対して争うことは出来ない、何となれば地方の大多数が承認しているからである。

新体制とは我々が権力を執る前の過渡期であるが我々がその新体制の階級まで進んだ時には、我々は最早新聞に社会の腐敗記事を取り扱わせないで、新体制はかくまで万人を満足させたから最早罪を犯すものもないと信じさせなければならぬ、もし犯罪があったら、何人も被害者とたまたま通り合わせた証人だけしか知らせないのである。

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