1905年の革命後引き続き、前に申した通り、ユダヤ民族のロシア帝政破壊工作は、手を緩めらるることなく、依然行進を持続したのである。1917年3月いよいよ露都には革命の火蓋が切られた。人民は口々に、パンを与えよと叫び、市内は騒然として鼎の沸くが如く、民衆は次第に集団して政庁に迫った。ついに3月11日露都に戒厳令がしかれ、軍隊は暴民鎮圧のため繰り出された。
おりから開会中の議会は、社会民衆党の意見に賛成し、現政府を瓦解せしめ、リボウフを首相に、民衆党首領ケーレンスキーを司法大臣に任命し、翌日仮政府を組織した。ついに3月15日には、皇帝は臨時政府の勧告に従い、退位の勅令を発し、皇帝アレキサンドルウィッチ大公に皇位を譲った。続いてケーレンスキーは新皇帝に退位を迫り、自ら仮政府の大統領に就任し、ここに300年来欧州に蟠踞していたロシア大帝国は崩壊し、いわゆる自由なる民主平等のロシア共和国が成立したのである。
このケーレンスキーという人は、純粋のスラブ民族ではなく、ユダヤ人である。三月この革命がロシアに勃発するや、かの有名なるレーニンはドイツから、四千万金マルクの軍資金を携え、ロシアに飛び込んできた。つづいてニューヨーク下町に、腕をやくして待っておった所のユダヤ革命家は、陸続としてロシア革命の舞台に登場した。当時駐露米国大使フレンシスが米国上院の委員会で、説明したところによると、ユダヤ人は革命開始のとき、一週間に約800人ずつ、群をなしてロシアにはいってきた、と報告している。
ヤコブ・シツフの公開せる所によれば、彼がロシア大革命のために、テロリストに提供したところの軍資金は、1200万ドルであると言っている。またロシア革命において、世界ユダヤ民族の提供した革命軍資金は、独りシツフのみならず、各国のユダヤ富豪より提供せられ、仏国官憲の言によれば、約200万円の金が、そのユダヤ富豪のみによって、革命家に寄贈されたとのことである。
かく虚無党、社会主義、無政府主義、ボリシェヴィキ、およびメニシェヴィキ等各種各様の破壊主義のユダヤ人は、無限の財力を有するユダヤ大富豪の、熱烈なる後援により、後顧の憂いなく、全力を尽くして活動したのであるからたまらない。ロシア大帝国はたちまちにして、ロシア共和国に、続いて共産ソビエトロシアに変化し、年来の仇敵ロシア皇室は、皇帝以下可憐なる皇太子、皇女に至るまで、無残にもエカテリンブルグの牢獄に惨殺され、帝政時代のあらゆる貴族、あらゆるインテリは、共産主義に降伏せざる限り、白系の名の下に、あるいは捕らえられ、あるいは外国へ逃走し、スラブ国家は根底より転覆せられ、今まで主として虐げられ、その居住地さえ限定せられておったユダヤ民族は、一躍ロシアの支配権を獲得し、事実におけるユダヤ政府を樹立し、共産主義の美名のもとに、一般スラブ民族を脚下に蹂躙して、これを昔帝政時代の農奴生活よりも、さらに悲惨なる獣的乞食生活に突き落としたのである。
ある日本人がロシア革命直後に、ゲー・ペー・ウーなるユダヤ人が、ロシアの富豪、貴族、僧侶等を捕え、片っぱしからどしどし虐殺するので、「いかに共産主義反対者であっても、君たちのやり方はあまりにひどいではないか」と詰問したところ、彼答えて曰く、
「我々ユダヤ民族が数百年来、ロシアの貴族らに虐待せられたことを考えるならば、我々の復讐は実に些々たるものである」
と答えたということである。この一事によっても、ロシア革命に対する彼らユダヤ民族の観念のいかなるものであるかを推知することが出来ようと思う。
これを要するに、以上は極めて簡単にロシア帝政崩壊に対する、ユダヤ民族の遠大なる計画、深刻なるその実行の概要をご紹介したに過ぎないが、右によって、一見相一致せざるが如きユダヤ民族の大資本主義と、革命主義とか、ユダヤ民族の理想を実現するために、協力一致しつつある実際の状態を、窺い知ることができるであろう。
次にロシア革命政府樹立にあたり、それがロシア政府でなく、事実においてユダヤ政府であったという証拠を、次の表によってご紹介しよう。
露国共産党領袖一覧表
右の過激派の主要人物を更に人種別に統計すれば、次の如き結果となる(一々人物名を挙ぐるは煩雑なるによりこれを省く)
露国帝政転覆のためには、単に過激派ばかりでなく、各種の反帝政社会主義団体が活動したことはもちろんである。次にこれらの社会主義団体内におけるユダヤ人の勢力を窺うために、右団体内における人種別を一覧に供する。
以上の諸表によって、ロシア革命は何人の手によって成立し、また革命後大ロシア国はあ何人の支配下に入ったかということを、明瞭に看取することが出来ようと思う。
次にユダヤ人にして、ロシア人の名を用いていたものを挙げて見よう。