ユダヤ人の渡米とロシア革命準備

ロシアにおけるユダヤ人圧迫は、ニコラス一世時代(1825年頃)に行われ、しきりに改宗を強制せられたが、1855年アレキサンダー二世の時代に至り、大いに緩和せられた。しかるにアレキサンダー三世およびその子ニコラス二世時代に入って、またまた峻烈になった。

ロシアからアメリカに移住したユダヤ人の大部は、すなわちこの時代のもので、西暦1882年から1906年に至る25年間に、ロシアからアメリカに移住したもの、実に200万人を突破している。

さてロシアにおいて、ユダヤ人に対する取締を厳重にした原因は、ロシア国内にいるユダヤ人が、国外のユダヤ人と相策応し、いわゆる過激思想によって、ロシア帝政の転覆を企図したためである。事実ロシアの各所で、過激派ユダヤ人の逮捕が、しばしば行われたのである。されど自由と解放とに熱狂せるユダヤ人は、ロシアの制圧が強ければ強いほど、また取締が厳重なれば厳重なるほど、自己民族の権利を獲るため、一層強くその力を用いた。遂に彼らはアメリカを利用し、次に述べるような、巧妙な方法を用うるに至った。

ロシアにおいて自由を獲ようとしたロシア在住のユダヤ人は、前に述べたようにどしどしアメリカに渡航した。そしてその滞在間にアメリカの国籍を獲得し、新たにアメリカ国民となり、ロシアにある自分の家に帰って来た。すなわち彼等は国を出るときはロシア人で、帰るときはアメリカ国民となっていたのである。

その当時米露両国政府は、相手国の国民の自由権を、互いに認めることを約束しておった。そこでロシア駐在のアメリカ領事は、この外交上の取りきめに基づいて、このにわか作りの新アメリカ国民に対する、ロシア官憲の干渉を絶対に拒絶し、彼等を保護することに努力した。しかしながらロシア政府は、この新しき米国ユダヤ人の過激的陰謀に対して、沈黙することが出来ないので、依然として彼等の検挙に努力し、そのアメリカユダヤ人であると否とにかかわらず、峻烈なるユダヤ取締を継続励行した。

これにおいてアメリカとロシアとの間に、ユダヤ人を中心として、外交的抗争が続けられ、その結果ロシアは、過激派ユダヤ人に対する取締に、若干の手加減をしなくてはならないようになった。フォードの機関紙たるインディペンデント紙の報ずる所によると、

「ロシアにおけるユダヤ革命家の重要人物は、その大部がアメリカのニューヨークから起こったもので、後に帝政を倒して自立したロシア革命政府、すなわちユダヤ政府は、このニューヨーク東部下町方面から来た人々によって、占められている」と述べている。

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