話は少々横道に入るが、このロシアにいるユダヤ人の自由獲得のため、いろいろな手段を弄して活動したのは、アメリカの金権王として有名なクン・ロエブ・エンド・カンパニーの支配者ユダヤ人のヤコブ・シツフであった。シツフはロシアユダヤ人の自由獲得と、ロシア革命のため終生尽力した人である。
話はこれからこのヤコブ・シツフの活動に移る。日露戦争勃発するや、シツフは日本の外債を一と手に引き受け、日本の武器をもって、まず露国を膺懲すべく計画をした。日本はまた彼の尽力によって、とにかく日露戦争を継続したのである。
かくて日露戦争は終末を告げ、ポーツマスにおいて日露戦争講話談判が開かれた。ここにおいて日本の小村外相と、ロシアのウィッテ伯とが、この談判の局に当たったのである。その際ウィッテ伯はまずニューヨークにおいて、ユダヤ人街を挨拶してまわったために、米国の諸新聞は、ウィッテ伯の偉大なる人物なることを称揚し、大々的にこれを掲げたので、ロシアの今までの不評判は一変して小村外相を圧倒し、ウィッテ伯はアメリカ人の間に非常なる人気を博するに至ったのである。これはウィッテ伯の夫人がたまたまユダヤ系の婦人であったためでもあろうが、しかしウィッテ伯がアメリカにおけるユダヤ人の偉大なる勢力と、その影響とを、よく心得ておったためにほかならないと思う。
今ウィッテ伯の「回想録」についてその真相を窺おう。このウィッテ伯の「回想録」は、いわば伯の生前の自叙記であるが、伯は1915年世界大戦中に歿したので、1922年ロシア革命後伯の未亡人によって公刊されたものである。該書は我が国では「ウィッテ伯回想記日露戦争とロシア革命」の表題下に、大竹博吉氏が翻訳して公刊したもので、すこぶる有益な書であるから、既にご存知の方もあろうが、この「回想録」中にある日露講話談判当時の伯のユダヤ人に関する行動の一部を左にそのまま摘録する。
『私(ウィッテ伯自身を指す)の行動方針』
私が、突然の命令で講和全権に任命されてから二週間の時日を経過した。その間に私は何かと多忙を極めていた、少しも落ちついて考える暇がなかった。今後六日を過ぎれば、私は猛烈な外交戦に臨まねばならないのである。そこで、この与えられた海上の六日間だけは一切他事を顧みないで、精神を集中して論戦の方略を研究することにした。幸い船中では単独で過ごす時間も多かったので、色々の事を考え合わせて、自分の行動の基調を大体次のように定めた。
三、アメリカにおける新聞の勢力の強大なのに鑑みて、記者達に対しては特に愛想よく心安く待遇すること。
五、アメリカ特にニューヨークで、ユダヤ人と新聞の勢力の強大なることを打算して、少しでも彼等の不快を招くような挙動のない様に細心に注意すること。
ポーツマスで決定した講和条項は、それが発表されるまでは、何人も思いもよらぬほどロシア側としては、実に無上の成功だと言われている。しかし、私がそれほど談判を有利に展開し得たのはひとえに前記の心得を守った結果と言わねばならぬ。
『ニューヨークユダヤ人街訪問』
ニューヨークでは大使の尽力で目抜きの場所の一流のホテルに私の宿舎をとってくれた。それはすべての点において申し分のないものであった。その代わりに私は毎日380ルーブルを支払わねばならなかった。その露台にはロシアの大国旗が高く揚げられていた。
その季節はニューヨークは酷暑の最中であった。市民の多くは他に避暑してしまって、市内はやや寂寥の感があった。アメリカの警察は何か聞き込んだ事でもあるのか、私が上陸すると直ちに私に護衛を付けた。この護衛は講和の成立後に却って厳重になった。それはアメリカ在住の日本人中に私に危害を加える計画がある様な風説が立ったからである。
また大使の話では、キシネフの大虐殺以来アメリカへ避難したユダヤ人の中にも、私を暗殺する計画がある様な風説が伝わっているとのことであった。
私がニューヨークへ着いた時、ユダヤ人街には行かないようにとの注意があった。この時ニューヨーク市内には約50万のユダヤ人が住んでいた。その多くはロシアを逐われて移住して来た者であった。私を暗殺する計画があるという風説はこの辺から起こったものらしい。
私はニューヨーク到着後直ちに自動車を走らせて、大使館員一人をしたがえただけでユダヤ人街を訪れた。最初は不思議そうに横目で見ていたが、私が幾人かのユダヤ人を呼び止めて、ロシア語で話しかけた時には、彼等は次第に私の周囲へ集まってきて、親しみの態度を見せるようになった。
『ポーツマス乗込み』
私は特急列車でポーツマスへ行くことにした。私が同市に滞在した事がいつか知れ渡ったので、停車場へ着いた時には多数の見物人が集合していた。その中に私に何か言いたそうにしている者が見えたので、私は護衛の警官から、車内から出ないように止められていたが、ホームへ降り立って、彼等の方へ近寄った。すると、その中からロシア語で話しかけた者があった。それは数人のユダヤ人で、最近ロシアからこの地へ移住した人々であった。私は彼等の生活状態を問うた、すると彼等はこう答えた。
「とにかく稼ぎがあるからロシアにいるより生活は楽である。しかし自分等はロシアの政治は呪うが、父祖の墳墓の地だからロシアを忘れる事はできない。今度の講和の談判でもユダヤ人はロシア全権の不成功を祈っているとか風説する者があるが、それは我々の心を知らない者の捏造である。我々はやはりロシア全権の成功を祈る者である。今日あなたがこの地にあると聞いて、それだけのことを言明するために来たものである」
列車が動き始めると彼等は一斉にウラーを高唱した。
しかしウィッテ伯の「回想録」によれば、ウィッテ伯は日本全権との講和談判の交渉以外に、予期せざる重大な交渉に遭遇した。まずこれを伯の「回想録」に依って検討してみよう。
『在米ユダヤ人代表との会見』
私はアメリカ滞在中にユダヤ人の代表者等からロシアにあるユダヤ人の待遇問題について、二度訪問を受けた。この代表者中にはシツフ(アメリカ・ユダヤ人、金融界の巨頭)及びシトラウス(前駐伊アメリカ大使)の二人も加わっていた。彼等はロシアのユダヤ人の境遇が悲惨なことや、今後このまま放置しがたいこと、ロシア人と同等の権利を付与する必要のあることなどを述べた。
私は彼等を非常に丁寧に待遇し、ロシアにあるユダヤ人の境遇に同情すべき点の多いことや、彼等の境遇改善の必要を認めた。しかしまた、現在アメリカで報道される所にも、随分誇張が少なくないと弁明した。ロシアの事情に全然通じていない、そしてロシアから来たユダヤ人の誇張的な説だけを聞いているシツフは、容易に私の言うことを承服しなかった。しかしシトラウス博士その他同行の人々が、やや私の言う所に傾聴したので、彼等との会見の結果は相当に効果があった。シトラウス博士は、現在コンスタンティノープル駐在のアメリカ大使である・・。
右のウィッテ伯とユダヤ代表との交渉の模様については、後の問題に関係があり、かつ興味あることであるから、更に少しくこれを詳述しておこう。
ヤコブ・シツフ及びシトラウス博士が、ウィッテ伯に会見した際、まず彼等は、冒頭に
「現在ロシア国内における、革命的反乱の原因は、すべて我々の計画によるものである」
とロシア革命の背後にあって、これを主催する彼等の陰謀を勇敢に告白説明したる後に、更に次のことを述べた。
「もしもロシア政府が、ユダヤ人に対し平等なる自由を与うるならば、このロシアにおける革命状態は、直ちに一変するであろう」
これに対しウィッテ伯は、次のように答えた。
「ユダヤ人に対して、ロシアが直ちに、平等なる市民権を与うることは、却って反動的暴行を惹起し、ユダヤ人にとっては、むしろ不利益であろうと思う」
と述べた。このウィッテの甚だ不満足なる答弁を聞いて、シツフは非常に怒った。しかしシトラウス博士等がこれをなだめ、更に数日の後会議を開いた。この会議においてウィッテ伯は、なお一層慎重な態度をもって、ユダヤ人側の提言に対し、同意を表することを保留した。その時シツフ等は次のように言うた。
「もしロシア皇帝にして、我等の要求する自由を認めないならば、革命党はたちまち共和政府をたて、その政府は完全に吾人の権利を保証するであろう」
と、ここにおいてウィッテ伯は百方弁解に努力したが、結局会議は物別れとなって、ユダヤ代表は引き揚げた。
この会議の決裂後、シツフ等の世界活動的機関クン・ロエブ・エンド・カンパニーは、直ちにロシア革命政府樹立の計画を立案し、シツフの命令によって、当時日本におったロシア捕虜に対し、ロシア帝国破壊のため、社会主義の宣伝が開始せられ、これがため莫大な費用が支出された。
間もなく、日本に捕虜になっていたロシア人幾万という多数に対し、慰問と称して多くのロシア語の書籍が、アメリカから寄贈された。この冊子こそロシア革命の準備工作であって、面白い小説の物語の中に、無政府主義や過激思想を含ませた恐ろしい一種の宣伝書であったのである。俘虜収容所に退屈な日々を送っていた彼等捕虜は、暇にあかして丁寧にこれを読んだ。その結果としてこの過激思想が、彼等の頭に根強く植えつけられてしまった。その効果は後年ロシア革命において歴然として現れ、彼等の革命は計画の如く成功して、ロシア大帝国は崩壊するに至ったのである。
話は少しそれるが、私が欧州巡歴中、トルコに「日土協会」ハンガリーに「日洪協会」と命名された会のあることを目撃した。何故にこのような会が組織されたかと調べてみると、欧州大戦当時、露軍に捕らえられた同盟国側の捕虜は、戦線から欧露へ欧露からシベリアにと段々東に輸送され、ついにウラジオストックにおいて、日本軍の管理下に入ることになった。我が軍では彼等を虐待せず、軍人として非常な厚遇を彼等に与えた。戦後故国に帰った彼等は、将来はすべからく日本に親しむべしと、当年の厚遇に感奮して、当時の捕虜将校が中堅となり、以上の協会が出来上がったということであった。
また満州事変勃発後、チチハル方面に走ったかの蘇炳文の一隊は、ついに露国に入って捕虜同様になってしまった。露国は彼等を収容中、盛んに共産主義を鼓吹した。その後彼等はこの思想を抱いたまま、支那に帰ってきた。新疆において共産軍が、段々とその勢力を増しつつあるのは蘇炳文等の直輸入によるものと伝えられている。
以上は皆捕虜の利用の好適例であると思うので、ここにちょっと蛇足を加えた次第である。
このシツフの宣伝せる国家破壊のインターナショナリズムは、当時ニヒリズムと称えられ、独りロシア捕虜のみならず、一般日本文学青年の間にも伝播し、我が思想界に深刻なる影響を与えた。
このロシア革命運動において、当時彼の支出した金額は、1600万円余と評価されている。すなわち当時におけるロシアの革命騒ぎは、相手国たる所の我が日本にとっては、非常に有利であったことは申すまでもない。
このロシアの革命騒ぎは、ついにロシア帝国をその場に崩壊するには至らなかったが、これはいわゆる西暦1905年のロシア革命と称えられ、欧州大戦におけるロシア大革命の基礎をなしたものである。換言すれば、最後のロシア大革命は、要するに1905年の革命の延長であると同時に、その終結を告げたものに過ぎないのである。
話はまた少しく後に戻るが、アメリカユダヤ人の提言はウィッテ伯に拒絶せられ、またロシア内部に、一般ロシアユダヤ人に対するロシア政府の取締りも、何ら緩和されることなく、否むしろ1905年の革命騒ぎによって、一層ロシア政府のユダヤ民族に対する注意および取締りが厳重となってきた。このことについて、ウィッテ伯はその回想録に次のように述べている。
『ユダヤ人問題と露米関係』
翌日はニューヨークに帰って、直ちにオスター・ベーに大統領を訪問して訣別を告げた。彼からは、我が皇帝陛下への親書を託された。大統領はその内容を私に読み聞かせたが、その中にはアメリカの国籍に入ったユダヤ人が、ロシア入国について宗教的関係から、色々制限をうけているのを撤廃されたいという、抗議的な要求があった。
その事は私が帰国して首相になった時に、委員会に付議したが、ついに決定する所がなかった。その後ゴレムイキンか、ストルイビンの首相時代に撤廃に決したと聞いたが、なにゆえか実行を見ないで、ついにアメリカとの友好関係の障害となったのは遺憾である・・・。
このウィッテ伯のいう、アメリカとの友好関係の障害とは、次に述ぶる米露通商条約廃棄のことを指すのである。