さきにロシア帝国の崩壊に対する、ユダヤ財閥の作用を大分クドクドしく述べたが、同じ共産革命を味わったドイツ及びハンガリーの革命は、その火の元は皆ユダヤ人の活動にほかならない。
1918年10月、ハンガリーにおいては、自由主義にかぶれたカーロイ・ミハイ伯爵が、ハンガリーのマツソン団(フリーメーソン)や、社会革命党の力によって、社会革命を実行し、11月13日にカロロ王ついにスイスに亡命し、ここにハンガリーは共和国が成立し、11月16日に共和政体となったのである。
カーロイ伯はハンガリー共和国の大統領に選ばれた。社会主義に心酔しきっているカーロイ伯は、その大統領となるや否や、彼が抱懐する社会主義の理想を実現すべく、非常な意気込みで、旧ハンガリー王国の各制度の改革に助力した。すなわち彼は社会主義者の抱く理想から推定して、王国は罪悪であり、社会主義の実現の国は、理想の天国であると考えておった。したがて彼はまず第一に、軍隊は帝国主義者の専制的武器であるから、社会主義の理想から言うと、無用の長物であるとて、祖国のために戦線に活動し、戦を終えて無事故国に凱旋する軍隊に対し、歓迎または感謝するどころか、片っ端から武装解除をしてしまった。
また憲兵や警察は資本主義の番犬であり、国民に対して不快な権力を振るうやつであるから、これまた自由の国にとって不用品であると言って、全部解散を命じてしまった。ここにおいてハンガリーは、武装せるもの何物もなく、社会主義者のいわゆる理想の自由国が生まれたのである。この頃合いを見計らって、ハンガリー自由国に飛び込んで来た者がある。
彼は有名な革命のリーダー、ベラ・クンというユダヤ人で、カーロイ伯の革命の真っ最中ロシアに行き、過激派の巨頭レーニン、トロッキー等と相談の上、好機至れりと、ハンガリーに帰って来たのである。そして数年間の大戦争に、困苦欠乏のドン底に陥り、疲労困憊の極に達している所へ、社会主義の宣伝をうけ、桃色に下ぬりの出来たハンガリー人に対し、彼は更に共産主義の宣伝を行い、同時に猛烈な共産恐怖政治を実行した。
この時社会主義者のカーロイ・ミハイ伯は驚いて、共産革命を弾圧しようとしたけれども、軍隊はもちろん憲兵も警察も全ハンガリーに武装せる何物もないため、全く手の付けようがなく、唖然としているうちに、ハンガリーの上下は、こぞって根こそぎ転覆せられたことは、滑稽にもあまりに悲惨な話である。
この革命の順序をたどると、初めから真っ赤な共産主義が、行われてはおらない。私の知っている限りにおいては、共産革命の序曲として、まず一般国民の間に、デモクラシーや自由主義ないし享楽、自然主義等の軟思想が漸次に注ぎ込まれ、しかる後この思想が凝って、いわゆる社会革命となり、これによって国力が衰え人身が骨抜きになる、この時に共産革命が一挙に行われる。まず以上が、どこの革命でも、ほとんどきまった順序のようである。
前に述べたロシアにおける共産革命の如きも、最初からこの主義が実行されたのではない。繰り返して申し述べるようであるがまずその内部に社会主義の思想が吹き込まれ、1905年社会革命の烽火が、あちらこちらにおいてあげられ、遂に欧州大戦末期に及んで、ケーレンスキーの社会革命により、帝政は転覆し、ロシアは共和国となり、馬鹿な国民は社会主義の自由を謳歌し、軍隊では「将校は兵卒の友達なり敬礼するに及ばず」と、ケーレンスキーの一宣言によって、さしものロシア大陸軍も、まったく崩壊に帰してしまった。そこへレーニン、トロッキー等の共産主義者が飛び込んで来て、共産主義の恐怖政治を実行し、遂に現在のソビエトを組織したことは、全くハンガリーの革命と同様である。
ハンガリーの革命の詳細は、私が他の著述にしばしば報道した所であるから、ここには省くこととするが、とにかくお人好しの伯爵カーロイ・ミハイの取り巻き並びに共産革命の活動役者の90%はユダヤ人であったのである。
我が日本にも、随分利口な人もあるが、中にはこのカーロイ・ミハイ伯に似たような人物が、ありはすまいか。もしありとすれば、非常時日本にとって、これこそ最大危険人物と私は考えるのである。
話は横道にそれたが、このハンガリーのベラ・クンは現在モスクワの革命学院の院長として、その怪腕を揮いつつあるが、スペイン革命における背後の煽動もまた彼ベラ・クンの活躍であったと報道されている。